三村悟郎先生と語る会(テキストのコピペ)

(以下、テキストのみコピペ)
三村悟郎先生と語る会 Pdf より

1.
三村悟郎先生と語る会
平成25年5月18日(土)17:30~
ホテル日航熊本 2F ブラッスリー 「セリーナ」
主催:三村家、医社)杜の木会、熊本県糖尿病協会
共催:熊本県糖尿病療養指導士会、糖尿病研究・治療・教育振興会、 熊本大学大学院 生命科学研究部代謝内科学、 琉球大学大学院医学研究科内分泌代謝・血液・膠原病内科学(第二内科)

故人を偲びつつ、生前ご交誼を賜りました皆様と共に明日の糖尿病について語りましょう。

2.
80有余年を振り返って
私の父三村高次郎は、北九州小倉市の出身で、日露戦争に朝日新聞の従軍記者として大陸に渡り、戦後大連の遼東新聞の記者となった。
公主嶺に鉄道とその沿線の居留民を守るため、独立守備隊の司令部が設置され、各新聞の支局も同地に設置され、父も公主嶺に移り、その中心となって活躍したそうである。
一方その家業として印刷業を営んだが、父は武士の商法で役に立たず母が 支えていた。
(2012年8月23日執筆 80有余年を振り返ってより)
公主嶺の停車場 公主嶺の市街 (植鉄の旅 失われた時をさがしてより) 守備隊

3.
母は、中国人の従業員からは、実の母のように慕われており、私は兄4人、姉2人の7人兄弟の末っ子で、5番目の男子、5男であるので、“ウージャングイ”、“5番目の旦那”と言われていた。
長兄は家業を継いだが、北一輝の日本改造法案を印刷したことで満州から追放され、飯塚の叔父の家で悠々自適、晴耕雨読の生活を送っていた。
次兄正辰の流暢な中国語を話し、好んで支那服を着て中国人と起居を共にしていた。
一方音楽の才能があり、我が家にはピアノ以外のたくさんの楽器があり、街の音楽家と共にグラスバンドを組織していた。
その後、関東軍の参謀本部の高級通訳官として従軍し北支那の作戦中、戦病死した。兄の葬儀は公主嶺の市葬として盛大に執り行われた。
音楽の才能は四兄(勉)にもあり、大学卒業後、ジュウイの哲学の研究のため米国留学が決定していたのをやめて、音楽の道を選んで日本では数尐ないハープを専攻し、ハープ専門の音楽学校を開校し、三村ハープアンサンブルを結成した。
兄はハープを通じて皇后陛下が妃殿下時代に知遇をいただき、宮中に参上していた。
兄勉は早逝したが、兄の告別式には皇后陛下の名代として女官が参列された。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

80有余年を振り返って中学校3年生まで一緒に寝ていた優しい“お母さん”

4.
公主嶺小学校公主嶺尋常高等小学校に入学。
公主嶺は独立守備隊と騎兵隊(後の戦車 隊)の所在地であり、父兄は一般市民、官吏、軍の将校の子弟に大別されていた。
高級官吏、や将校の子弟の母は担任に贈り物を届けたりしており、これらの子弟は民間の子弟に比べて優位な立場にあり、学芸会などへの一般市民の子弟の参加は尐なかった。
小学校2年生の時、担任の先生にこの不公平を見直すように直訴したのも、小学校卒業の時、優秀賞を頂き、母がとても喜んでくれたのを良く覚えている。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

(植鉄の旅失われた時をさがしてより)
公主嶺小学校騎兵隊

5.
新京第一中学校新京一中へ入学したが、それまでは英国のイートン校と同じく、背広にネクタイと いうモダンな制服と、カバンはリュックサックという風であったが、私の入学時から戦時色は濃厚となり、国防服に戦闘帽という姿に一変した。
公主嶺から新京まで片道1時間40分を、各校学生約300名以上が汽車通学をしていた。
列車が空いている時は車内で勉強出来たが、さもない時は夜勉強しなければならなかった、そのため授業時間中に習ったことは、その場で整理記憶するようになった。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)
大正19年公主嶺鮫島通り多くの満州の学校でそうであったように、冬場には運動場に氷を張り、スケート場としていました。
そのため、三村先生はスケートが上手かった。

6.
そして満州医科大学予科へ昭和16年の春、陸軍幼年学校、士官学校の校長だった山田梅二先生が、新京一中の校長に赴任された。
昭和18年5年生になり、朝礼の時、真珠湾攻撃で戦死した特攻隊の方の辞世の句「君がため何か惜しまむ若桜散って甲斐ある命なりせば」 を私の発声によって全校職員、生徒が斉唱したのもいまでも脳裏に刻み込まれている。
秋には梅津関東軍司令官の査閲があり、全満州の中等学校の閲兵 分列が行われたが、新京一中がその先陣であり、青山君が校旗をもち、私の“分列に前へ”の号令で司令官の査閲が行われた。
昭和19年、山田校長から「君は理科に転換せよ」とわれ、医学部に行くように説得され、高校文科から理科に方向転換することになり、 公主嶺近い奉天の満州医科大学予科に進学することになった。
当時、校長の真意は分からなかったが、戦後校長にお会いした時に、「君には生き残ってもらい祖国の再建を期待していた。」と述べられた。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)
満州医大予科時代

7.
終戦、暴動昭和20年8月勤労動員の後、1週間の休暇を得て帰宅したが8月15日の終戦により、中国人の暴動がおこり日本人は公会堂に遾難した。
我が家は中国人の従業員たちから中国のために尽力してきたので暴動にやられることはないといわれたが、暴徒にはこのことは理解されず、我が家も略奪されてしまった。
公会堂に遾難していれば生命の危機からは回遾することができた。
(当時のレンガの家はまだ残存し、使われているらしい。)
公主嶺にある日本人が建てたとされる残存するレンガの家この家が当時の家であったかは不明
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

8.
終戦、最後の満州医大奉天にペストが蔓延し、日本人医師の協力が求められ、ソ連軍の命により、“満州医科大学は授業を再開せよ”ということになり、母と姉は私に奉天に戻って勉強するよう勧めた。
しかし、汽車は何とか動いてはいたが無法状態であり、奉天まで身の保障はなかった。
デッキで中国人に挟まれてなんとか乗車できたが、不安感で一杯であった。
天佑神助というか、列車の中ほどにいたソ連軍の将校から“ヤポンスキー(日本人)はこちらへいらっしゃい。”と英語とドイツ語で声をかけられ、席を空けてくれ、色々と話すことができたのは幸いであった。
ソ連でも医師の社会的地位は高く、奉天の駅は一緒に改札口を通り、啓名寮までジープで送って頂いた。
寮に帰ると日本人学生は無事に生活しており、大学の授業は継続していた。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)
旧満州医科大学、現在も中国医科大学となって建物は使用されている。
奉天駅前浪速通り満州医科大学

9.
帰国、満州医大予科から、一旦佐賀高等学校を経て、そして熊本医大へ
昭和21年になると満州から本土への引揚げが開始され、大学、予科からの転入問題について、文部省との折衝のため予科の山口教授が帰国されることになり、私も予科学生代表として帰国することになった。
得本、野間君と共に佐賀高校理科3年に編入し、3か月後卒業した。
奉天から日本に引揚げ後に熊本医大の教授になられていた満大の先輩である緒方、牧野教授のお世話になり熊本医大に転入した。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

10.
熊本医科大学時代 戦後は食糧事が悪く、1日2合1勺の配給米で国民は飢えをしのぎ、空き地には芋、野菜を植え、闇市では高い値段で食糧品が売られていた。
これでは一体日本の将来はどうなるのかと絶望感にさいなまれたが、ベトナム戦争が勃発し内需外需ともに著増し、日本経済は一機に好転した、日本の食料事情もこれにつれて回復していった。
食糧不足で一番損をしたのが野犬であり、野犬は殺され食糧に供される悲劇となった。
アルコール類は高価であり、そのため違法のどぶろく酒やアルコールを闇で購入してウイス キーをつくる闇酒が闇市で売られていた。
学生はコンパの時、金がないのでアルコールをいかにして入取するかが懸案であり 、手術場の婦長さんにかわいがられている学生の尻を叩いて、婦長さんから消毒用アルコールをもらってくることだった。
1本のアルコールで3本のウイスキーができるのでコンパには十分量であつた。
外科の臨症講義の時,手術に必要は血液を学生から募集したが、採血の時には付き添いのハイエナの数人の学生がつきそってきたが、輸血の謝礼のお金で一杯のむのがその目的であった。
それくらい当時の学生にはお金の余裕がなかったが、それなりに楽しい学生生活であったともいえる。
デートは喫茶店でコーヒーなんて贅沢なことは不可能で、芋屋で芋を出がらしのお茶で食べるのが精一杯の贅沢であったが、若さはそれなりの喜びを生み出していたといえる。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

11.
妻節子との出会いと結婚
妻節子とは細菌学教授の六反田藤吉先生の仲人で11月に結婚式をあげた。
父の机の引き出しの中から母の実家の門の前で

12.
体質医学研究所時代
満州医科大学時代の友人である小村一壽君は私より1年早く医大に入学 し体質医学研究所臨床学研究部に入局しており、一緒に勉強しようと誘われて、宮尾定信教授の門下生となった。
入局の挨拶に参上した際、“君の研究テーマは糖尿病の遺伝に関する研究であり、研究のためには総てを犠牲にしてやりなさい。”と言われ驚いて教授室を後にした。
大学のポリクリで糖尿病患者には遭遇せず、臨床講義では患者なしの勝木教授の講義だったので、大変なテーマをいただいたものだと思ったが、やるしかないと覚悟をきめた。
当時糖尿病の研究診療は松井俊英助教授がされていたが、西も東もわからない私にないも教えてくれなかった。
尿糖の定量方法,血糖の測定法も本を見ながら試行錯誤を繰り返して習熟した。
新入医局員の私は週4回外来勤務。
心電図検査。
入院患者の受け持ち、研究所で血糖検査、糖負荷試験を担当させられ、かつ無給医局員のため週3回はアルバイトで稼がねばな らず、早朝家を出て夜帰宅する休日のない生活であった。

いま医師になっている長女が小学校2年年の時、父の顔を図画の時間に画かされて、“父の顔が分からない。”と答えて先生がびっくりして飛んでこられたエピソードがあった。
(2012年8月23日執筆80有余年を振り返ってより)

13.
熊本大学成人体質医学研究部助教授時代 昭和40年

14.
熊本大学附属病院昭和49年 病棟回診

15.
日本の糖尿病医療の黎明 Diabetes Frontier Vol.8 1997 研究とその背景を語る 三村悟郎、金澤泰徳先生

16.
ストーブ焚きが協会設立の発端 空襲で熊本医科大学は一部を除いて焼失したので、戦後は、研究所も熊本城内二の丸の中にあった兵舎にわび住まいをしていた。
冬は猛烈に寒く、早朝からストーブを焚いて部屋を暖めないと採血ができないので、早起きは習慣になっていた。
そのうち早く検査にこられる患者さんが、煙突を掃除しストーブをもやしている私に同情され、一緒に焚きましょうと協力してくれるようになった。
当時、糖負荷試験は坂口食(米飯270グラム、生卵2個、沢庵尐々)を食べてから、180分まで30分毎に血糖を測定した。
採血、血糖の測定の合間に患者さん方の質問に答え、食事の指導も行なった、その後系統的な講義を希望されたので、休日に患者さんの旅館で糖尿病教室をおこなった。
講義、 検査を通じて患者さんとは段々と打ち解けて、私はよろず相談役となり、夫婦喧嘩の仲裁役まで勤める羽目にもなったが、家族の検査にも快諾して頂いた。
休日に研究所に来られない場合には、私が検査器具をもって患者さんの自宅に参上して家族の検査をさせて頂いた。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)
熊本県糖尿病協会の幕開け

17.
熊本における糖尿病協会はこのように医師と 患者の人間的交流から自然発生的に生まれた
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)
33年秋頃、肝いりドンの患者さん方が相談し、患者さん方に奉加帳をまわし、 毎月一人100円ずつ集めて私たちに感謝の意を表そうとされたので、「その御好意を感謝いたしますが、謝礼はお断りいたします。」と申し上げたところ、患者さんの1人であった熊本県の総評事務局長の田上重時氏から、「折角集めた患者の好意を生かそう」と、「患者の勉強会を立ち上げては」との相談があ り、医師の主導ではなく患者が自主的に運営する会に、医療面を医師、看護師、栄養士、薬剤師、臨床検査技師、理学療法士らが担当する会を作りたいと考えておりました私は、即座に賛成し、宮尾教授にも御了承を戴いたわけです。
熊本における糖尿病協会はこのように医師と患者の人間的交流から自然発生的に生まれました。

※本間注: 1958年(昭和33年)には精神障害者に対する「インスリンショック療法」が保険適応になっている。
1990年(平成2年)に廃止されるまで32年間精神障害者にインスリンが使われる!


18.
熊本県糖尿病協会、かいどう会発足
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)
私と組織づくりのエキスパートの田上重時氏が仕掛け人となり、松石英雄氏、松石鶴次郎氏、高浜半蔵氏、柏田芳市氏、 竃芳郎氏ら実業界の方々、助産婦会会長の中島みきさんらが中心となり、33年11月に協会設立準備委員会が発足した。
1959(昭和34)年6月熊本県糖尿病協会“かいどう会”発足。
田上氏は金のある者は金をだすこと、金のない者は知恵を だすこと、金も知恵もない者は体を使えの名文句を使い、患者さんたちを纏めてくれた。
“金のある者は金をだせ、金のない者は知恵をだせ、金も知恵もない者は体を使え“

19.
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)
熊本県糖尿病協会

20.
熊本県糖尿病協会機関紙 「かいどう」第1号 1959(昭和34)年7月30日刊行
患者さんが私どもに感謝されてカンパで集まった金を資金にして組織つくりのベテランの田上氏が会則(案)をつくり、 会報を定期的に毎月発行し、1面は田上氏、2面は私が担当することにした。

かいどう (ハナカイドウ)
花言葉「温和」 「艶麗」 科名:バラ科 原産地:中国 学名:Malus halliana 樹高:4m-5m 別名:スイシカイドウ 主な開花期:4月-5月

後にあさひ会の機関紙「あさひ」を合同し、「やよい」へ

21.
かいどう会が生まれて2年足らずの歳月で、 全国組織に拡大
昭和35年4月 福岡県糖尿病協会あさひ会結成、発足
昭和35年7月10日、京都糖尿病協会、みどり会結成、発足
昭和35年9月10日、日本糖尿病学会から各大学病院にレイマン部門結成についての趣意書が送付
昭和32年12月、日本糖尿病学会が設立され、33年6月、IDFの正式メンバーとなったが、IDFは Scientific Section(学術部門)とLayman Section (糖尿病患者および医師以外の方の所属する部門)から構成されており、IDFの加盟メンバー国はレイマン部門を併設していなければならな いことになっており、日本糖尿病学会は趣意書を配布し、各大学病院を中心に各地区の病院にレイマン部門の発足を依頼した。
1961(昭和36)年9月日本糖尿病協会設立。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

22.
第1回熊本県糖尿病協会の夏季合宿講習会 1962(昭和37)年6月
熊本県かいどう会では、独自の第1回夏季講習会を、山鹿温泉の洗心閣で行った。

23.
ミュンヘン留学 ボンシャー教授ご夫妻と ワンちゃんの名前はデンディー 1964年 昭和38年10月 生化学実験室にて

24.
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

25.
熊本県糖尿病協会 40周年記念誌

26.
糖尿病食事療法の理論と実際 金原出版 昭和48年 4800円もしました

27.
糖尿病 糖尿病-その予防と治療- 宮尾定信、三村悟郎編著、 1965(昭和40)年4月、葦書房出版。
熊本大学体質医学研究所成人体 質学研究部の糖尿病研究班で糖尿病の啓蒙書を出版、系統的な本の最初の出版であり、啓蒙には有益であった。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

28.
インスリン自己注射の保険適応のとりくみ

29.
日本で最初の小児糖尿病サマーキャンプ開催
1963(昭和38)年8月18日~25日、東京女子医大小児科丸山博先生の指導で東京つぼみの会主催による我が国最初の小児糖尿病サマーキャンプが千葉県勝山海岸で開催。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

30.
熊本県小児糖尿病サマーキャンプ 1968(昭和43)年8月、熊大体研臨床部の三村助教授ら糖尿病研究班は、キャンプ創始者である東京女子医大小児科の丸山博講師を招いて、熊本市の五峰閣(現KKRホテル)で患児と共に予備キャンプを行った。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

31.
予備キャンプの翌年、1969(昭和44)年8月に熊本県、福岡県において、第1回サマー キャンプがそれぞれ開催された。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

32.
1970(昭和45)年7月、東京、熊本、福岡で小児糖尿病サマーキャンプ開催 東京都糖尿病協会主催 (つぼみの会)のサマーキャンプ(開催期間は10 日間、秋山山荘)、福岡県糖尿病協会主催の第2回サマーキャンプ(福岡市大濠、社会福祉センター、 1週間)、熊本県糖尿病協会、学会主催、第一ライオンズクラブの援助により (熊本県阿蘇郡赤水、白雲山荘、1週間)の第2回サマーキャンプが開催された。
(熊本から発信した糖尿病協会、 糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

33.
第5回のサマーキャンプの後に、日本糖尿病協会の機関紙、“さかえ”の座談会を頼まれ、熊本の親御さんを集まってもらった時に、親のキャンプへの協力がなかっため、“サマーキャンプを我々に任せばなしではいけない、子供たちのため一緒にやりましょう”と話しをし、 “インスリン治療が必要不可欠な患者がインスリンの注射液を自費で購入することはおかしいので、協会として厚生省にインスリン注射液を健康保険で交付されるように陳情したが、実現は困難であったこと、インスリンの注射をしなければ生存できない子供の糖尿病の存在を、世論に訴えることが、インスリン自己注射の健保適用を厚生省に交渉していく過程で必要であることを患児の父母に説明したところ、小児糖尿病を守る会が急遽設立された。小児糖尿病を守る会の誕生
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

34.
1972(昭和47年)3月1日の時点で全国の各県支部に於けるインスリン自己注射の健保適用に対する請願書の署名数は114,318に達し、この請願書を各県選出の国会議員を通じて波状的に陳情することが、常任理事会で決定された。インスリン自己注射の健保適用請願書の署名数10万人を超える

35.
1973(昭和48)年3月24日、熊本市市民会館会議室において発足した。
会員は小児糖尿病の親が中心であり、小児糖尿病に対する理解を深めるのが第一の目的であり、第二は数尐ない小児糖尿病の存在を社会に認識させることであった。
第 三の目的は日糖協が既に運動を展開しているインスリン注射を両親が合法的に出来るような運動を展開することであり、さらに小児糖尿病を難病のなかに指定される運動の展開を意図したものである。
日糖協におんぶするものではなく、親たち自身が運動をしなくてはならないという切実な気持ちから発生したものである。
実際の親たちの声が社会に対しても、また国に対してもより大きな反響を与えるものであるので、日糖協の暖かい理解と支援を期待して立ち上がった組織である。
小児糖尿病を守る会発足

36.
小児糖尿病を守る会、熊本県庁に陳情 1973(昭和48)年5月9日 国が難病指定にするまで熊本県として医療費を補助して頂くこと、県として厚生省に小児糖尿病を難病に指定するように働きかけて頂くこと、また、日糖協が運動しているインスリン自己注射の健康保健適用の問題、自己注射の合法化も合わせて県の立場から厚生省に説明して頂く楊にお願いし陳情書を提出。
熊本県としては前向きに検討していただく旨の回答
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

37.
小児糖尿病を守る会、厚生省に陳情 1973(昭和48)年5月29日、東京つぼみの会から2名、日糖協から橋本理事長、清水、知見副理事長、東京女子医大小児科の丸山講師を同道し、熊本県小児糖尿病を守る会の会員と共に厚生省、山口敏夫政務次官とお会いし、小児糖尿病を難病指定にすること、インスリン自己注射の健康保険適用についての陳情書提出その緊急性について父兄の立場からと医師の立場からそれぞれ説明。“患児のインスリン自己注射、患児の親がインスリンの注射を幼児にすることは患児の生命を守ることであり、医師法に優先するものであるという見解が次官から示された。” 同日NHKの番組を録画
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

38.
録画の前に山口政務次官と二人で会談し、小児糖尿病患児は、成人後には社会で働きながら自己コントロールができるので、難病指定より小児期のみ慢性疾患に指定する方が賛同を得られ易いとの両者の見解が一致した。
しかし、インスリンの健保適用は簡単には行かないので、 実現までは長野県方式で対応しなさいとの次官の見解が示されたが、 熊本県では許可されませんでしたと告げると、それはおかしい帰熊後、次官見解と県に言ってもらえば実施可能ですと申された。
その後熊本の小児糖尿病患児を録画したビデオを予め次官とみましたが、泣き叫ぶ幼い患児が母親に押さえつけられインスリンの注射をされる時に、“お父さん助けて”と叫ぶ姿に次官は落涙され、“小児糖尿病救済は必ずやります。”と私に確約された。
録画の前の山口政務次官との会談
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

39.
1973(昭和48)年6月 NHKで「かくれた難病~小児糖尿病~」放映
NHKの古賀プロジューサーは実際にサマーキャンプに参加し、“インスリンの自己注射を保健適応 にしなければかわいそうだ。”と、 一連の筋書きを構築。
1973(昭和48)年6月NHKの「かくれた難病~小児糖尿病~」に、当時の山口敏夫厚生政務次官、丸山先生、東京つぼみの会の 父兄、そして、熊本県の小児糖 尿病を守る会の会員が出演して、全国に子供にも糖尿病があることが報道された。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

40.
1973(昭和48)年6月NHK 「かくれた難病~小児糖尿病~」

41.
1974(昭和49)年10月から 小児糖尿病は小児慢性疾患に指定
当時弱冠32歳の山口次官の英断により、小児糖尿病救済の道が開かれたことを、今でも思い出して次官に感謝申し上げる次第である。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より) 医療費は個人負担から、国庫負担へ

42.
長野県方式 次官の言葉で熊本県でも長野県方式が許可された。
しかし、1996(昭和51)年12月10日、突然長野県方式によるインス リン給付方式禁止の厚生省通達 “長野県方式はまかりならぬ。” 再びインスリンは自費購入となり、インスリンを注射している患者さんは途方に暮れると共に憤りに燃えた。
インスリン自己注射をしなければ死に至る子供達に健康保険では何故インスリンの給付ができないのか。
そして厚生省への陳情をしたが、糖尿病学会からその必要性を 申請すれば許可するという返答であったが、学会は学問をすると ころで、社会医学的なことは協会がすべきであるという持論の変更は困難だった。
協会としても在京の方々が度重なる陳情をされたが、実際は大変困難だという見通しだった。
熊本県の小児糖尿病を守る会としては訴える準備を整えていた。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

43.
園田直厚生大臣と面談
1980(昭和55)年12月の日糖協の常務理事会に、私は第24回日本糖尿病学会会長の立場から出席したが、事前に橋本理事長から熊本県選出の園田代議士が二回目の厚生大臣就任予定となっているので、私にインスリン自己注射の健保適用を直訴して実現してもらうようにお願いして欲しいとの要望があった。
この機会を逃してはインスリンの健保適応の可能性はないと懇願され、一か八かやってみましょうと引き受けた訳である。
このことを理事会で説明し、もし陳情してもインスリン自己注射の健保適用が実現しない時には、訴訟に踏み切る以外に解決方法のないことを述べて理事会の承認を得たわけである。
私の熊大体質医学研究所臨床学研究部の在籍時、宮尾教授の指導をうけた谷口正信博士が園田大臣の姪御さんと結婚されていたので、大臣に面談の労を谷口博士にお願いし、1981 (昭和56)年1月17日、熊本市のホテルキャッスルでお会いすることになり、インスリン自己注射の健保適用の必要性に関する書類とを提出し、糖尿病患者の治療の現状とインスリン自己注射の妥当性について説明し、大臣の英断を懇望した。
別室には原口義邦、陣内冨男氏が待機 していた。
インスリンの問題に関しては大変勉強されており、我々の陳情に理解は示しながらも 即答は遾けられ、私が、「もし陳情してもインスリン自己注射の健保適用が実現しない時には、 訴訟に踏み切ります。」と申したところ、大臣は、「厚生省は真面目である。」 と答えられた。
今から考えるとこれがお答えだったかと思われる。
会談後大臣秘書から、この問題解決には今しばらく時間が必要であるとの大臣の弁が谷口 博士に伝えられた。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

44.
1981年1月17日 インスリン自己注射の保 適応についての要望書
琉球大学保健学部附属病院教授 第24回日本糖尿病学会総会会長 日本糖尿病学会理事九州支部長
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

45.
1981(昭和56)年6月1日、 インスリン自己注射の健保適用認可
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

1981(昭和56)年6月1日、インスリン 自己注射の健保適用が国により認可 された。
これによりインスリンの自己注射が法的に認可されたことになり、 健保によりインスリン注射が交付されることになったことは糖尿病患者に とって朗報であり、その実現にむけて20年闘ってきた日糖協にとっては喜びに耐えないことである。
弥生誌上の主張に「うそを言わない政治家― 山口政務次官、園田直大臣」に協会 としての賛辞を記している

46.
インスリンデー、または インスリン週間 の設定を提案
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

47.
第44回小児糖尿病サマーキャンプ

48.
第13回日本糖尿病学会総会・熊本 Stefan S. Fajans教授夫妻、宮尾定信教授とともに 1970(昭和45)年5月21日~22日、熊本市市民会館、交通センターホテル 日本糖尿病協会設立10年目を迎え、日糖協総会も同時開催

49.
琉球大学保健衛生学科 医学部第2内科時代

50.
日糖協沖縄県支部、沖縄県糖尿病協会発足
1977(昭和52)年10月22日、琉球大学付属病院内 科受診の患者が中心となり、沖縄県糖尿病協会が発足し、日糖協の全国組織が完了した。
協会結成の最初と最後の県が九州の熊本と本土 復帰直後の沖縄であったことと、両者の設立に私が 関わったことも興味深いことであり、那覇県立病院、琉球大学付属病院を通じて糖尿病協会設立の土台 を築いてこられた佐久本政紀、普天間弘先生に感 謝申し上げる次第である。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

51.
第3回沖縄県小児糖尿病サマーキャンプ 昭和55年8月 子供達と一緒に

52.
第24回日本糖尿病学会総会・沖縄 昭和56年4月、那覇市、主催。第21回日本糖尿病協会総会開催、日糖協の設立20周年。
日本復帰の10年目、当時糖尿病学会のように大きな学術集会が沖縄県で開催された経験が全く なかった。

53.
馬場茂明、H.K.Min, J.Kobbering, E.J.Kim 各教授と 後藤由夫、安部裕、飯淵康雄各教授と レセプションにて、 神戸、昭和57年2月 International Symposium on Clonico- Genetic Genesis of Diabetes Mellitus

54.
ハワイ スタディ第1回 ハワイ スタディ 小川昭三ハワイ大学教授 A.Kagen Honolulu heart program所長 ハワイ、昭和57年10月 第10回 ハワイ スタディ ハワイ慈光園にて、平成3年9月

55.
第14期日本学術会議会員就任祝賀会 那覇、昭和63年6月

56.
第2回日中友好糖尿病シンポジウム 会長講演 福岡、1988(平成元)年10月

57.
琉球大学第2内科 病棟回診 1992(平成4)年2月

58.
琉球大学時代 1992年(平成4年)3月退官

59.
糖尿病研究・治療・教育 振興会の立ち上げ 早くから糖尿病教育者協会/糖尿病療養指導士会を日本にも立ち上げる必要性を訴えていた。 平成4年、日本にはまだなかった Diabetes Educator/糖尿病療養指導士の教育ための本(AADE)の翻訳をきっかけに 糖尿病研究・治療・教育振興会が立ち上がった。 (熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

60.
傘寿のお祝い 2006(H16)年6月4日、おく村にて

61.
糖尿病療養指導士の育成ために AADE Diabetes Educator 糖尿病療養指導士 平成4年 平成14年

62.
新京一中七期会

63.
益崎先生教授就任祝賀会 2009年12月4日

64.
2010年糖尿病週間行事 市民公開講座の最初の御挨拶 2010年10月23日

65.
特別講演して頂いた東京女子医大 岩本 安彦先生、益崎裕章先生と 2010年糖尿病週間行事 2010年10月23日

66.
「糖尿病療養指導士認定機構」講習会 沖縄 2010年11月13日 益崎裕章教授、野口千佳子さん(第二内科秘書)、田仲秀明先生(琉球大学1期生)、 山川研先生(琉大6期生)と、琉球大学にて

67.
2011(平成23 )年9月弥生最終号 また、その日が来るまでしばらくお休み

68.
そしてアットいう間に50年が過ぎた。 糖尿病学会設立50周年記念式典

69.
糖尿病学会設立50周年記念式典

70.
日本糖尿病学会設立50周年記念祝賀会

71.
日本糖尿病学会設立50周年記念祝賀会

72.
翌日から闘病生活へ

73.
米寿のお祝い 2013(平成25)年1月1日 治療も終わり退院後のお正月 数えで88才

74.
三村先生笑う ではまた、患者さんのために、 しっかり勉強するように。

75.
糖尿病という名称は不名誉なのか (熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より) この時に会員から協会名に糖尿病という病名を用いるのは、対世間的な配慮からまずいという発言があり、協会名をかいどう(海棠)と呼称することなどが申し合わされたが、正式には総会の承認が必要であるので、便宜上、かいどう会と呼称することにし、連絡等にはかいどう会名を用いることにした。
なぜ糖尿病という病名を嫌うのか、糖尿病は贅沢病と言われるからなのか、治らない病気からなのか、糖尿病だと就職に差し支えるからなのか、糖尿病は遺伝するから子供の結婚に支障がおこる心配がある、糖尿病はインポテンツになる、めくらになる、など巷間で言われているので隠したいという心境と解される。
政治家の場合、政敵に悪用されるので、隠すという風習は今でも残っている。
特に、1型糖尿病の場合、糖尿病の治療としてインスリン治療をう けていることを上司や同僚に話をしていない場合には、強化療法をしたくても、昼食前の血糖測 定、インスリン注射を隠れてしなくてはならなくなり、強化療法は結局出来なくなる。
職場のインス リン注射は勿論のこと、1型糖尿病がリストラの理由にされる危険性から、糖尿病患者であることを隠し、やむなく2回注射をしている例もある。
英国の協会のように糖尿病が差別されない社会に日本もしなければならないことを改めて痛感される。
しかし、当時はやがて100万人の糖尿病の時代の前であるから当然の考えと言えるであろう。
上述のような糖尿病協会名を熊本はかいどう 会とニックネイムで言うように、福岡県ではあさひ会、京都府ではみどり会と呼んでいるが、糖尿病に対する社会的偏見をなくすためには、患者自身が糖尿病であることを隠すことをやめ、社会 的に必要とされる人になる努力が要求される。

76.
糖尿病協会の沿革 熊本に糖尿病協会が誕生した経緯については、大変ユニークな幾つかの背景因子があつた。
先ず第一に昭和29年(1953年)5月、私が熊本大学体質医学研究所臨床学研究部に入局し、宮尾定信教授の指導を受けたことである。
宮尾教授から頂いた研究テーマは糖尿病の遺伝体質の研究であり、先生が私に研究のためには全てを犠牲にして完成せよと訓示されたことを、いまでも夢に見るくらい私の脳裏に深く刻み込まれている。
しかし、私は病院のポリクリで糖尿病患者に遭遇せず、臨床講義では患者なしで、インスリン治療の講義をうけたことから、当時は内科病棟に1型糖尿病の入院患者が稀であったと考えられる。
したがって1型は勿論、2 型の糖尿病患者も尐ない現状で、健康な糖尿病の患者の家族の検査をどうしたらさして頂けるかについて悩んだ。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

1)何故熊本に糖尿病協会が誕生したのか?

77.
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

78.
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)

79.
父親の顔を書きなさいと先生から言われて、よく分からないから書けないと娘が答えた。
家族の検査の承諾を得るためには、私に対する患者の信頼が基本条件になる。
研 究所の入院病床数は研究病床であるため、十九床しかないので、私は出来る限り入院 された糖尿病患者の主治医となり、患者さんと人間としてのお付き合いを心がけた。
また外来患者、退院した患者の血糖検査を研究所で定期的に行つたが、当時は尿糖、血 糖、コレステロールなどの測定は手作業であり、試薬類もすべて自分で作らなければならない苦難の医局生活であった。
また、私以外の教室員のすべては動脈硬化症の研究に従事していたので糖尿病の研究は3年間私一人で行なった。
当時は結核が蔓延していた時代であり、糖尿病に結核を合併した患者の治療に苦労した時代でもあった。
暁に家を出て、星を踏んで帰るという研究生活を続けた。
休日は糖尿病の遺伝の研究のため、患者の家族の検査を行うか、月1回は病棟当直にあたるため、休日のない生活をおくったため、子供たちと休日を過す時間はなかった 。

医師になっている長女が小学校2年の時、父親の顔を書きなさいと先生から言われて 、よく分からないから書けないと娘が答えたので、先生が驚いて家庭訪問をされたエピ ソードがあった。
(熊本から発信した糖尿病協会、糖尿病療養指導士認定機構の沿革より)













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